Innovative Steel
時代を変えた「鉄の世界遺産」
社会や暮らしを大きく変革した建築、乗り物、家電、日用品、玩具や文具など、
後世に伝えるべき「鉄の世界遺産」といえるものを、
技術力や社会への貢献度、デザインなどの視点から選定し
「イノベイティブ スティール」として発表いたします。
鉄道用車輪
安全輸送を支えて
新幹線は、1964年10月に東京・新大阪間で営業走行を開始、世界の高速鉄道の先駆けとなった。以来、日本の大動脈の安全輸送を支え続けている。この高速走行を根底で支えているのが、強靭で摩耗しにくい特性をもった、鋼鉄製の車輪である。
多くの人命を預かる鉄道車両用の車輪には、高い信頼性、強度、耐磨耗性などが求められる。その材質は、鉄道用車輪として開発されたものであり、走行試験など多数の試験により選定されている。製造工程としては、1.素材製作(不純物の少ない鋼片を鉄鉱石から製造)、2.熱間成型(鍛造・圧延により、鋼片を車輪の形状へ)、3.熱処理(焼き入れ・焼き戻しで所定の強度・硬度を得る)、4.機械加工(必要部位を高精度に切削加工)といった順序で製作され、品質を万全とするため、各工程内での検査や最終検査が行われている。
A:この貨車用車輪(12トン貨車用車輪)は、1959年から操業を開始した9,000トンプレスラインの操業当初に製造された車輪で、旧国鉄で使用されていたものである。現在、国内唯一の車輪熱間製造設備である9,000トンプレスラインで製造された車輪は日本国内のみならず、海外でも多数使用されている。
B:新幹線用車輪は300km/hもの高速で走行するため、一段と高い信頼性、性能が求められる。一般車輪と異なり、高速回転に対応した回転バランスを確保するため、全面が機械加工されている。また、高速時のブレーキに対応するため、ブレーキディスクを取り付ける構造を採用している。さらに、高速走行を安定したものとするためレールと接触する部分の形状も新幹線専用の形状となっている。
鉄道のレール
世界の鉄道輸送を静かに支える
1872年、日本で初めての鉄道が新橋-横浜間に開通し、その区間29kmを53分(時速約30km)で走行した。当時鉄道レールは全て海外から輸入されていたが、現在日本の鉄鋼業は、世界のトップランナーとして、全世界のレール需要の約10%を生産するまでに成長した。
日本でのレールづくりは1901年スタートした後、1930年に完全国産化を実現した。ドイツの技術導入をベースに始まったが、その後日本独自の技術開発を通じて、世界の鉄道輸送の発展を支えるまでに成長した。
鉄道は、旅客鉄道と貨物鉄道の2つに分けられる。1950年代以降の復興・高度成長期の過程で、旅客鉄道の「高速化」と貨物鉄道の「重荷重化」へのニーズが高まった。東京オリンピックが開催された1964年、東海道新幹線の開業によって、鉄道は世界最高速(210km/h)を記録し、世界各国の旅客鉄道は高速化にしのぎを削ることとなった。またオーストラリアやブラジルなどの鉱山や北米の大陸横断鉄道などの貨物鉄道においては、重荷重に耐えるレールが求められた。
このため、走行安定性の向上に寄与する、厳密な形状を作りこむ高精度の「圧延技術」や、レールの長寿命化に寄与し、耐磨耗性を向上させる「成分設計」と「熱処理技術」の開発が進められてきた。
現在500系のぞみやフランスTGVなどの「早くて乗り心地の良い」高速旅客鉄道や、オーストラリア、ブラジルなどの鉱山で「新幹線の3~4倍の荷重を支える」鉱山鉄道輸送を支えているのが、こうした日本鉄鋼業の技術である。現在日本鉄鋼業は、世界の10%弱の鉄道レールを生産している。
砕氷艦「しらせ」
南氷洋の厚い氷を砕く船
1983年(昭和58年)に就航した海上自衛隊の砕氷艦。「宗谷」「ふじ」に続き、南極観測隊と物資の輸送や洋上観測に従事してきた。南極海の厚い氷を割って航行するため、氷が衝突する部分には通常の大型船よりも厚い45mmの鋼板が使われている。今年引退し、新しい「しらせ」に任を引き継ぐ。
日本の南極観測は1912年(明治43年)の白瀬中尉の南極大陸探検が始まりである。第二次大戦後1956年(昭和31年)、灯台補給船を改装した「宗谷」で南極観測事業が開始され、その後「ふじ」に引き継がれた。そもそも昭和基地は、南極大陸のなかでも日本からの距離が遠く、氷の状態も厳しい場所にあり、砕氷船でなければ行くことができない。砕氷船は通常の船に比べ、ずんぐりした船体と平らな船底が特徴だ。しかし、「宗谷」「ふじ」のいずれも砕氷能力は他国の砕氷船に比べ劣っており、南氷洋で氷に阻まれたときには外国の砕氷船に救出されたこともあった。
「しらせ」は「宗谷」「ふじ」を超える能力をもつことが要求された船である。3万馬力のエンジンと45mmの船首鋼板により、3ノットの速度で厚さ1.5mの氷を連続砕氷することが可能である。氷厚が増し連続砕氷ができなくなると、船を後進させ助走をつけて氷盤に体当たりして砕氷する(チャージング)。砕氷の衝撃で塗装は大きく剥げ落ち、そこから腐食が進み、南極航海のたびに補修を繰り返してきたが、老朽化が著しくなったため退役することになった。過去25回の南極航海のうち着岸できなかったことは1回だけであり、輸送能力の向上した「しらせ」は、南極観測に大いに貢献した。
協力:海上自衛隊
南部鉄器
鉄のふるさとの伝統工芸
岩手県は、味わいのある南部鉄器のふるさとであるとともに、近代製鉄発祥の地でもある。それは、同地が鉄器の原料である砂鉄や鉄鉱石に恵まれ、燃料である木炭が豊かであったことに由来する。南部鉄器は職人の手仕事による伝統工芸というだけでなく、近代製鉄の原点ともいえる。
南部鉄器といえば、ごつごつとした感触とともに、なんとも懐かしい味わいある色合いと細かい文様で知られている鋳造の鉄器である。鋳造とは、鋳型に溶解した鉄を流し込んで物を作る方法である。最近ではNHKの朝の連続テレビ小説『どんど晴れ』で、長門裕之が南部鉄器職人を演じて話題ともなった。
みちのくの特産として人気のある南部鉄器は、17世紀頃に茶道に造詣の深かった南部藩主が京都から釜師を呼び、鉄釜をつくらせたのが始まりと言われている。岩手県はもともと鉄器の原料となる砂鉄や鉄鉱石をはじめ、燃料である木炭、鋳型のための川砂や粘土、着色用の漆などが豊かで、以後鉄器の生産が盛んとなった。そして、後に近代製鉄の始まりとなる日本初の高炉が岩手に建設されたのも、こうした原料の豊富さや鉄器工業が盛んであったことなどを背景としている。
南部鉄器の製法は、木型をもとに粘土などで型をとり、特有の文様を付けた鋳型をつくり、ここに銑鉄を流し込み、型から取り出した器を木炭で焼き、錆を防ぐというもの。とくに、サビ止めの方法は「金気止め(かなけどめ)」と呼ばれ、南部鉄器独特の方法である。鋳型から取り出した鉄びんを、約900度で真っ赤に燃えている木炭の中にいれ、すっぽりかぶさるように上からも炭をかぶせ、ものによって30分から3時間炭火のなかに入れておく。この工程により鉄の表面に四酸化三鉄の皮膜ができ、サビを防ぐ働きをする。なお、アリーナ会場では、南部鉄器のひとつ、南部風鈴が涼やかな音を奏でている。
シームレスパイプ
深さ4000mから採掘可能に
溶接を一切行わず圧延だけで製造されるシームレスパイプ。シームレスとは「継目が無い」の意味で、継目無く製造することにより強度や耐食性を一段と向上させることができる。その最先端技術で製造されたパイプは、エネルギー・環境分野で大きく貢献している。
戦後、ストッキングはシームレス化することにより強くなった。パイプも同じで、継目を持たないシームレスパイプは均質で高強度、高耐食性の実現が可能であり、その高い信頼性から様々な分野で活躍している。例えば、原油やガス採掘用の油井管、それを輸送するパイプライン、火力や原子力発電所用鋼管、自動車用鋼管などである。現在では、鋼材中に含まれる不純物の制御法開発により、高強度でかつ硫化水素腐食環境中でも耐えることのできる油井管が開発されている。
この鋼管開発により、従来では採掘が困難であった深さ4,000mを超すようなガス田からの天然ガス採掘が可能になった。天然ガスは燃焼時に発生する大気汚染物質(SOX、NOX)が少ないだけでなく、二酸化炭素の発生量も、同一熱量を得る場合で比較すると石炭や石油に比べ大幅に少ないため、クリーンエネルギーとして注目されており、シームレスパイプは石炭・石油から天然ガスエネルギーへの代替による環境負荷低減に大きく貢献している。また、高温強度に優れた発電用鋼管の開発により、ボイラ温度の高温化を実現、熱効率向上による二酸化炭素排出削減や、自動車への高強度鋼管適用による軽量化(燃費向上)の面でも、地球環境問題に対して大きな貢献を果たしている。
SOX:硫黄酸化物 NOX:窒素酸化物
明石海峡大橋
架橋技術を劇的に発展させた世界最長の橋
本州と四国を結ぶ3ルートのうち、神戸淡路鳴門自動車道に架かる橋。1998年の完成から10年を経ているが、今も世界最長の吊橋であり続けている。着工から完成に10年を要し、20万トンの鋼材が用いられ、品橋の生命線であるケーブルは総延長30万キロにも及ぶ。
本州と四国間に橋を架けてつなぐことは、半世紀以上前からの夢であった。1959年より、本格的な調査が始まり、本四連絡橋ルートの1つとして、淡路島を経由するルートが選ばれた。
1969年に国の開発計画として正式に位置づけられ、1970年架橋建設のための組織「本州四国連絡橋公団」が発足し、建設が開始された。本州と淡路島の間にある明石海峡は、潮流が激しい上に、海上交通の要でもあったため橋の建設をより困難なものにした。ここに橋を架けるためには、当時最長の吊橋であったイギリスのハンバー橋より500m以上も長い1,991mをケーブルで支える橋を作る必要があった。
吊橋は主塔と主塔の間に鋼鉄のケーブルを架け、そのケーブルにより、路面を支える構造になっている。直径5.23mmの素線といわれる鋼線を127本束ねたストランドが、さらに290本まとめられて、1本のケーブルになる。このケーブルが2本で路面を吊り下げることになる。つまり73,660本の素線が橋を支えている。
この橋を架けるために、従来の1mm2あたり160Kgの強度を持った鋼線より強い、180Kgに耐えられる鋼線が新たに開発された。1本の素線で自動車3台が持ちあげられるほどの強さである。さらには、路面に使われる鋼材も、高い強度で軽量化できる高張力鋼が開発され、橋の経済的な建設が可能になった。この橋の建設により、日本の鉄鋼業は、さらに多くの新技術と経験を手に入れることができた。
建設中の1995年この橋から約1Kmに震央があった阪神淡路大地震が起こった。この影響で主塔間は当初より、1.1m拡がったが、橋の建設に直接の被害は出なかった。
協力:本州四国連絡高速道路株式会社
高強度鋼板「ハイテン」
軽くて強くて、人と環境にやさしいクルマを
1970年代以降の排ガス規制やオイルショックを機に、燃費向上のための自動車軽量化と衝突安全性を高める切り札として開発が進められてきた高強度鋼板「ハイテン」。車体重量30~50%を占めているハイテンのさらなる高機能化が、人と地球を守り続けていく。
鉄の変形は結晶配列が乱れた不安定な「転位」と呼ばれる隙間部分が動くことによって起こる。自動車のボディに使われる「ハイテン(High Tensile Strength Steel)」は、炭素やシリコン、マンガンなどの他元素を微量添加して、この転位部分を動きにくくすることで強度を飛躍的に高めた鋼板だ。高強度化すると、同じ衝突安全性を担保しながらボディを薄く軽くすることができるため、自動車の燃費向上に寄与する。例えば、ハイテン使用比率を現在の平均40%から60%まで高めると燃費はさらに4%向上し、日本全体として年間220万キロリットル(東京ドーム1.8杯分)のガソリンが節約されることになる。
また現在では、自動車のデザイン性の向上と製造工程の省力化の観点からボディの一体成形が求められる中で、強度だけではなく、優れた加工・成形性(軟らかさ)を兼ね備えたハイテンが続々と開発されている。
添加元素の成分調整や温度管理などの“仕かけ”によりナノレベルで結晶組織を制御して、一つの鋼板内に硬い結晶組織と軟らかい結晶組織を共存させてプレス成形性を高めたものや、約900°Cから常温までの温度履歴を緻密に管理することにより、衝突時に一瞬変形してすぐに硬くなるもの、そしてプレス成形と同時に硬くなるもの、成形後の焼付塗装で硬くなるものなど、加工・使用段階で求められる諸特性に応じた適材適所の使い分けを可能にする材質の作り込みが行われている。
IH釜炊飯器
ごはんを美味しく炊く内釜の力
自動式電気釜が発売されて50余年、電気炊飯器の定番はIH方式となった。しかし、IH釜の開発は容易ではなかった。全く異なる性質のステンレスとアルミ合金を接合させるという最先端の製造技術がIH釜を可能として、家庭で美味しいごはんを炊けるようにした。
日本人ほど、ごはんを美味しく、手軽に炊くことにこだわった民族はない。縄文時代には、米は煮て食べており、中世になって釜で炊く方法になったという。そして、1955年に東芝が自動式電気釜第一号を発売して以来、様々な電気炊飯器が開発されてきたが、「IH炊飯器で炊いたごはんはうまい」という声が最近定着したようだ。IH(Induction Heating)とは、電磁誘導加熱式のことをいう。IH炊飯器では、釜の下あるコイルに電気を通し磁力を発生させ、この影響で内釜自身が直接発熱し米を炊き上げる。それまでのニクロム線を熱して釜を暖め米を炊くというヒーター加熱方式とは根本的に異なるものである。「IH式」というのは、炊飯器について言えば、内釜が直接発熱して米を炊くことをさす。
磁力によって内釜が発熱するためには、内釜の素材が問題となる。それまで用いられていたアルミの内釜では発熱が足らず、鉄やステンレスは発熱面では十分だか熱伝導が足りず米がうまく炊けなかった。そこで、溶湯鍛造製法でステンレスとアルミの合金層を形成することで接合した鍛造厚釜が用いられることとなった。電気磁力を使ってステンレスをヒーターとして発熱させ、アルミによって素早く米に熱を伝えることにより美味しい炊飯ができるようになったのである。
しかし、鍛造厚釜をつくることは容易ではなかった。アルミ合金はステンレスの2倍の熱膨張があり、収縮率の異なる金属同士は単純には接合できない。そこで、この金属を分子単位で接合することにより合金層を形成し、分離を防ぐことが可能となった。毎日の生活に使われる炊飯器の中にも、最先端の技術がふんだんに盛り込まれている。
協力:東芝ホームアプライアンス株式会社
和釘
300年後の人たちへのメッセージ
「釘は錆びる」というのが現代の常識だ。しかし、法隆寺の解体工事で発見された飛鳥時代の和釘は1300年を経ても強度を失っていない。その秘密を解き明かし、さらに現代の技術を駆使して「1000年の和町」づくりに挑んだ男たちがいた。
展示してある和釘は、奈良・薬師寺の回廊の復元工事で現在使われているものである。1000年後まで錆びずに木造建築を支え続けると考えられている。鉄は錆びやすいものと私たちは考えているが、法隆寺の解体工事から出てくる飛鳥時代の釘は、1300年の時を経て、今日でもその強度を失っていない。ところが江戸時代以降の改修工事に使われた釘は、すっかり錆びてしまっている・・・。
薬師寺の宮大工棟梁・西岡常一氏は、回廊の復元工事に取りかかるにあたって、今後1000年という時の流れに耐えられるような和釘をうってくれるよう鍛治・白鷹幸伯氏に依頼した。
一方、東北大学の井垣謙三名誉教授は、鎌倉時代以前の鉄の多くが非常に高い純度に精製されている点に着目し、それが耐食性の良さに結びつくと考えた。「古代のものに近い成分の鉄を作って欲しい」。井垣教授からの打診を受けた日本の鉄鋼会社は、収益を度外視して従来にない高純度の鉄の製造にとりかかった。不純物をきわめて少なくしたうえで、釘としての適度な強度を出すためにカーボンを約0.1%加えた鉄を開発した。1990年10月、丸棒に加工された約6トンの鉄が白鷹氏の仕事場に納入された。現代の製鉄所の生産量からすると桁違いに少ない量だが、薬師寺の全工事が終わるまでの向こう30年分の釘を作ることができる量であった。白鷹氏は1日100本、2ヶ月あまりで600本の釘をうち出した。
今回再建される薬師寺回廊が再び解体修理されるのは、およそ300年後と考えられている。
手術用替刃式メス
臨機応変の替刃が手術を変える
医療用メスは、研ぎの手間削減や感染防止の観点から、現在は替刃式の使い捨てタイプが主流となっている。替刃といえども、その切れ味の良さには十分な注意をはらわないと手術に支障がでる。まさに、刃物として恐ろしいほどの完成度である。
手術の道具として、多くの人がまず思い浮かべるのが「メス」ではないだろうか。しかし、医療関係者以外は実際にメスを見る機会はあまりなく、現在は替刃式が主流であることを知る人は少ない。
かつて、手術用メスは一刀型で、医師が使用するたびに何度も研いで使ってきた。しかし、メスを研いで消毒するという作業は大変手間がかかり、1970年頃までは大病院にはそのための研磨職人が常駐するほどであった。そこで、英国で刃を使い捨てるメスが生まれると、手間削減に加えて、感染防止など衛生面からも使い捨てタイプのメスが急速に広がった。現在先進諸国では使い捨て型が主流で、英国では使い捨てが義務づけられている。ただし、発展途上国ではその余裕がなく、旧来のメス研ぎが相変わらず行なわれている。
替刃式メスの先端につける刃(ブレード)は用途により様々な形状がある。大まかに分ければ刃の先端が弧を描く円刃(えんじん)メスと、先端がとがった尖刃(せんじん)メスに大別できる。円刃メスは主に皮膚切開、尖刃メスは細かい作業に使い分けられている。メスの刃はカミソリ同様鉄の合金であるステンレスからつくられたものが主流で、きわめて鋭利なため指で触るだけで皮膚が切れ、扱いには注意が必要である。
最近は、フィギュアや模型制作などの細かい作業に医療用メスが重宝される。しかし、医療用器具は犯罪や安全性に配慮して、原則的には一般に販売されていない。
協力:フェザー安全剃刀株式会社
高性能電磁鋼板
省エネルギー社会を静かに支える
電気が普及し始めた1900年、薄鋼板に微量のケイ素を加えることで、変圧器や電動機のエネルギー効率を高める新たな鋼材として登場した電磁鋼板。その後、電気⇔磁気といったエネルギーの変換効率を向上させる技術革新を通して、現代の電気文明を支えている。
電磁鋼板は、鉄が持つ磁気特性を活かした鋼板で、発電機や電力を各家庭に送るトランス(変圧器)、各種電気機器のモーター(回転機)の鉄心として不可欠な材料である。トランスでは電気エネルギーを電圧の異なる電気エネルギーに、モーターでは電気エネルギーを機械エネルギー(回転力)に変換する役割を担う。いずれの用途でも、鋼板を磁気が通るときに、エネルギーロス(鉄損)が少ない、つまり磁化しやすいことが必須条件だ。
電磁鋼板には、電気の流れる方向が決まっている場合のトランスの鉄損を低減するため、鉄の結晶の向きを揃えて一方向に磁化しやすくした「方向性電磁鋼板」と、結晶の方向をランダムに配置して全方向への磁気特性を高めたモーター用の「無方向性電磁鋼板」がある。
方向性電磁鋼板は、熱処理などの温度管理と添加物の制御により、約1週間をかけて直径10~25ミクロンの結晶を肉眼でも見える直径1~2センチの巨大な結晶粒に育て上げ、その過程で緻密に結晶方位を揃える“匠の技”。送電時のエネルギーロスを著しく低減させている。
一方、無方向性電磁鋼板は、製鉄プロセス全体で磁気特性に優れた結晶をランダムに制御してモーターのエネルギー効率を高めるとともに、現在では、ハイブリッドカーやモバイル機器の普及にあわせて、モニター技術に求められる回転の高速化、小型化、長寿命化を材料特性(強度など)の側面から支えている。
高耐食性ステンレス
進化し続ける“錆びない鉄”
鉄は錆びるものという世間の常識をくつがえしたステンレスの出現は約100年前のことだった。“錆びない鉄”(Stainless Steel=ステインレス スティール)という特徴がそのままその製品の名前になった。現在でも、さらに錆びにくい鉄をめざして進化が続いている。
ステンレスは、鉄にニッケルやクロムなどのレアメタル(希少金属)を添加することで鉄に錆びにくい性質を生じさせたものである。鉄を大気中に置いておけば自然に錆びる・・・これも鉄の重要な特性だが、製品として錆びにくいことが求められるものは多数存在する。錆びにくい性質のことを耐食性と呼ぶが、クロムが鉄に加わることで、鉄の表面に100万分の数ミリという非常に薄い酸化膜(不動態皮膜)が生じ、この膜が錆びをふせぐのである。その皮膜は薄いものだが大変に強靭で、一度壊れても自ずから再生する性質をもっている。また、耐食性だけでなく、意匠性、耐火性、低温特性、加工性など非常に優れた特性があり、その表面の美しさもあって、家庭の厨房器具、台所用品などから、医療器具、精密機器、家電製品、化学プラント、建築など様々な用途に使用されてきた。ステンレスの歴史はまだ浅く、1910年頃に欧州で始まり、日本も1918年に研究が開始された。今日では日本が世界のステンレス製造技術のリーダー役を果たすに至っている。不動態皮膜は常に水が当たっているような流し台でも破られることはないが、海水の飛沫がかかる用途、又は製塩プラントなど高塩化物をふくんだ環境などでは皮膜が破られ局部的に侵食されて錆びになることがある。今では、こうした課題は技術革新によって徐々に克服され、高耐食性ステンレスとして、その用途は従来は想像もできなかった海上構造物を支える杭の保護材や醤油タンクなどにまで広がりつつある。
連続鋳造
溶けた鉄を連続的に冷やし固める省エネプロセス
現在の鉄鋼の製造において、成分を調整した溶けた鋼(約1,600°C)は、連続鋳造工程でスラブ(羊羹のような長方形断面の鋼の塊)等の半製品に、連続的に冷やし固められる。1933年に考案された同法は鉄鋼製造プロセスに適用されて著しい進歩を遂げてきた。連続銭造法の設備と操業は、日本で独自の改良がなされて現在に至っている。
かつては、鋳型に溶けた鋼を流し込んで、自然に冷やして固めた鋼鉄を再び加熱して分塊圧延機で延ばし、鋼片を作るという「造塊一分塊法」が主流だった。しかし、現在は、溶けた鋼を水冷した鋳型に注ぎ、急速に冷やし固めながら一定断面形状の鋼片をつくり、そのまま加工段階に移行する「連続鋳造法」に変わっている。それは、
1.再加熱と分塊工程が省略できる。
2.分塊法では切り捨てなければならない端の部分が、連続銭造鋳片では非常に少ないため歩留りが大幅に向上する。
3.成分が均質で不純物も少ない。
4.技術の進歩とともに生産性や表面品質が格段に改善され、工程間の連続化が可能になる。
また、連続鋳造で製造するスラブの品質を確保するための技術には以下のものがある。
1.生産性の向上と変形や割れ防止としては、スラブの応力・ひずみ・変形の解析が必要なためコンピューター計算プログラムが種々開発され制御に適用されている。
2.非金属介在物対策としては、非金属介在物、すなわち鋼中の不純物を取り除くために、溶けた鋼中のより軽い不純物を浮上分離するための流体力学的計算の研究が進んでいる。
3.鋼に溶け込んでいる微量の元素は、冷えて固まる際に濃度が部分的に偏ってしまう傾向がある。このような偏析防止のために溶けた鋼が冷えて固まる際の凝固過程に関しては、様々な研究が進んでいる。
つまり、かつての「造塊一分児法」で、行なわれていた「高温状態⇒冷却⇒再加熱」という効率の悪いプロセスを改善し、生産性を向上させただけでなく、品質まで向上させたところに、「連続鋳造法」の素晴らしさがある。
TMCP(Thermo mechanical Control Process)
鍛冶の技術をマスプロ技術に生かす!
焼き入れ、焼き戻しは鉄を硬くしたり、粘り強くする(強靭化)熱処理で、古くから行われてきた。この熱処理と、制御された圧延による加工を同時に組み合わせて施すTMCPは、材料の加工プロセスを自由自在に制御することで、強靭な鉄鋼材料を製造可能としている。
鉄をより高強度にするためには、従来より炭素をはじめとする合金元素を添加する方法がある(いわゆる固溶強化)。TMCPはこれらの強化法に加え、鋼板製造工程の温度、圧延加工履歴を制御することで鉄の強靭化を達成する。実用材料は多くの結晶からなる多結晶体であり、この一つ一つの結晶の大きさが鉄の性質に大きく影響する。結晶が細かいほど鉄は強靭になる(微細化強化)。厚鋼板を作る工程で、主として材料の圧延温度(ローラーで厚みを減ずる加工の温度)を従来より低くし、かつより厳しい加工を行うことで結晶の核(タネ)を多く発生させ[制御圧延]、かつ圧延後に直ちに急速な冷却を行う[制御冷却]ことでタネからできた結晶が大きく成長する時間を与えないという機構で細かな結晶組織を作り出す。鉄は使われる目的により、硬くあって欲しい、粘りがあって欲しいなどと、求められる性質が違うため、1枚(大きなものでは幅5m、長さ30mにも達する)の厚鋼板ごとに、いわばオーダーメイドのような加工が施される。
TMCP鋼は実用化後10年たらずで、造船、建築、橋梁、ラインパイプ、圧力容器など厚鋼板の用途の大半で使われるようになった。望んだ通りの鉄を作るには、鋼材全体を狙い通りの冷却速度で均一に冷却する、狙った温度で冷却を瞬時にとめるといった高精度の「制御冷却」が必要とされる。TMCPの技術は厚鋼板のみならず熱延薄鋼板、形鋼、棒線材にも適用されている。
ネオジム磁石
日本発の世界最強磁石
ネオジム磁石は1982年に日本で発明された世界最強の永久磁石である。とくにモーター(電動機)に用いると、小型化や省エネルギーに画期的な成果をあげる。そのため、自動車・パソコン・携帯電話などネオジム磁石の活躍の場は次々広がっている。
ネオジム磁石は、希土類元素(レアアース)のネオジムと鉄、そしてホウ素を主成分とする金属間化合物(Nd2Fe14B)で、世界最強の永久磁石である。この磁石が発明されるまで、希土類元素と鉄からなる強力な希土類磁石は知られていなかった。
磁力と電流を回転運動に変えるモーター(電動機)では、磁石が強力になればなるほど、小型化すること、電気を節約することができる。また、ヘッドホンやスピーカでは、振動板が磁界中で振動することによって音が発生するが、磁石が強力になるほど、より小型の高音質スピーカを実現できる。
こうしたことから、2007年には日本国内で年間約1万トンのネオジム磁石が生産された。代表的な応用は、ハイブリッド車の駆動モーターや電動パワーステアリングなどの自動車用モーター、あるいは省エネ家電(エアコン、冷蔵庫、洗濯機)向けモーターや、ハードディスクのヘッドを駆動するボイスコイルモーターなどがある。その他、ロボット、自動機用サーボモーター、医療用MRI、各種センサーなど用途は続々広がってきている。身近なところでは、携帯電話のバイブレータやスピーカにもネオジム磁石が使われており、多くの人々の生活を見えないところで支えている。
先のサミットでも話題となった地球温暖化を解決するために、二酸化炭素排出量を削減することが必須になっている。日本の二酸化炭素の3割は発電で発生しており、モーターが日本の電力の半分を消費している。二酸化炭素排出量削減のためにモーターの効率向上は重要であり、ネオジム磁石の活躍の場はさらに広がると見られている。
高炉
鉄鉱石から鉄を生み出す
木村拓哉主演のテレビ番組『華麗なる一族』で一躍有名になった、製鉄所のシンボル「高炉」。その設備の高さは100m以上に及び、形状は、炉断面単位面積当りの生産性とエネルギー効率を追求した結果、円筒の徳利(とっくり)型となっている。
高炉は、鉄鉱石に含まれる酸素分を効率よく除去(還元)し、一挙に溶解までを行う反応炉である。最上部から鉄鉱石とコークスを交互に装入し、炉下部から1,200度の熱風を吹き込むと、炉内温度は2,000度以上の高温状態になり、化学反応が促進されて、鉄鉱石から鉄が還元分離される。
高炉には鉄鉱石とコークスが絶え間なく装入され、24時間連続操業が行われるため、改修が困難で、従来から長寿命化が追求されてきた。高温にさらされる過酷な環境下で、その耐用年数は15年以上と言われるが、実際には炉内のレンガを貼り替えるだけで再び使用できる“エンドレス”な反応設備となっている。
現在大型の高炉は日本で約30基、世界で800基以上あるといわれ、鉄鉱石からの鉄鉄製造設備の内、95%以上が高炉法によるものである。
近代高炉の原型は、14世紀から15世紀にかけてドイツ・ライン河の支流で誕生した。当初は熱源・還元材として木炭を使用し、水車の動力でふいご送風を行っていたが、その後16世紀にイギリスに渡り、森林資源の枯渇を背景に、1709年木炭の代替原料としてコークスを使った現在のシャフト炉による銑鉄生産がはじまった。その後蒸気式送風機や熱風炉などが開発され、生産量や還元剤の点で優位に立った高炉は、現在まで300年にわたり銑鉄製造の中核設備としての地位を不動のものとしている。
近年旺盛な鉄鋼需要を背景に、高炉の大型化が進められており、大型高炉の場合、高さ110m以上、内容積5,000m3以上、出銑能力は1日あたり13,000トン以上となっている。1858年に大島高任が操業を開始した日本で最初の高炉が、高さ8m程度、出銑量は年間で300トン程度であったことと比較すると、150年間の大きな進歩を実感できる。
余部鉄橋
東洋一の規模、日本一愛された鉄橋
集落のはるか上空をまたぐ余部鉄橋は、東洋一といわれる規模とともに、その美しさから、鉄道ファンのみならず、山陰線随一の観光地として、まちのランドマークとして人びとの誇りとなり長年愛されてきた。惜しまれつつも架け替えることが決まっている。
日本海に面する山陰本線に架かる「余部(あまるべ)鉄橋」は、明治45年に高さ41m(ビルの15階に相当)、長さ309m、東洋一の規模の鉄道橋として、総工費33万円(現在再建すると約42億円)と延べ約25万人の職工の手によって完成された。トレッスル式と呼ばれる、鋼材をやぐら状に組み上げた橋脚は、朱色に塗られてことのほか美しい。鉄の橋は、人の生活を便利にするだけでなく、美しさまで演出してくれる好例であろう。
鉄橋のある兵庫県香美町は厳しい山岳地形で、深い谷間の全部集落をまたぐ形で建設された。橋はトンネルから出てそのまま次のトンネルへとつないでおり、11の橋脚は集落の民家の間からそそり立っている。集落から見上げると、トンネルから延びたレールから列車がまるで空に飛び立つように見える。
また、山陰本線随一の観光景観として毎年多くの観光客が訪れ、日本土木学会からは『日本の近代土木遺産』のAランクとして位置づけられている。そして、余部小学校の校歌に「緑の谷に そびえ立つ 鉄をくみたる 橋の塔」と歌われるほど人々から愛され、観光資源として、山陰線のランドマークとして「町の誇り」となっている。
昭和61年には、突風にあおられて回送列車が鉄橋から転落し、鉄橋下のカニ加工工場の従業員と車掌の6人の方々がお亡くなりになるという不幸な事故もあった。このため、その後は風速20m以上になると運行を停止することとなった。
90余年の歴史を持つ余部鉄橋も架け替えが決定し、平成22年にはPCコンクリート橋に生まれ変わる予定である。
東京タワー
半世紀を刻んだ東京のシンボル
昭和33年(1958年)に東京タワーは完成した。高度経済成長が始まった時期で、日本中に活気があふれていた。高さは333mで、エッフェル塔より8.6m高く、当時は世界最高の塔であった。東京の観光名所ではあるが、本来の役割として関東一円にテレビ・ラジオの電波を発信している。
鉄骨作りの自立塔で約4,200トンの鋼材が使われている。鋼材は溶接ではなく鋲の一種であるリベットを用いて接合されており、1年3ヶ月で完成させた。一方、それまで世界最高であったエッフェル塔は、東京タワーより70年近く前に建設されたが、鋼ではなく錬鉄を用い、7,300トンもの鉄材が使われている。ここにも鉄の進歩が見られる。
航空法の定めにより、塔は赤と白に塗り分けられており、建設当時は11等分だったものが、現在は7等分に塗り分けられている。塗装は外観のためだけではなく、防錆のためにも重要で、およそ5年ごとに塗り替えられている。
東京タワーは堅い地盤の関東礫層に基礎を打ち込み、関東大震災以上の地震にも、風速90mの風にも耐えられる設計になっている。
観光スポットとしても多くの人を惹きつけており、延べで1億3千万人以上が訪れている。展望台は150mの大展望台と、250mの特別展望台があり、大展望台へは土・日には階段で上ることもできる。20年前からは夜間のライトアップがされている。ライトは午前0時に消灯となるが、消灯の瞬間を恋人と一緒に見ると幸せになれるとの都市伝説が生まれ、多くのカップルが毎夜見上げている。
最近では、リリー・フランキー氏の「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」がヒットしたが、建設当時から多くの小説や映画に登場してきた。地震や風には強いが、モスラをはじめとして怪獣には何度も壊されてきた(?)。
協力:日本電波塔株式会社
安全カミソリ
毎朝のヒゲそり習慣の歴史は浅い
現代の日本人男性の多くは、毎朝ヒゲをそることを習慣としている。しかしながらこの習慣に一役買っている「安全なヒゲそり」の歴史は意外に浅い。薄いステンレスを刃に用いた「安全カミソリ」が発明されてからのことであり、ようやく100年の歴史を刻んだところである。
太古の時代は、石器によってヒゲをそっていたと思われるが、ほとんどヒゲそりは行なわれていなかった。エジプトでは青銅器で、ローマ時代には鉄で、現代のレザー(西洋カミソリ)に似たものが考案されたが、当時の切れ味は非常に悪く皮膚を傷つけることも多く、あまり普及しなかったという。
日本へは、僧侶が頭髪をそる法具として伝えられたのがカミソリ(髪そり)の始まりとされ、その後の和カミソリとして発展していく。しかし、仏教行事であったため一般にはそれほど普及せず、多くは毛抜きのようなものでヒゲを抜いたり、線香で毛穴を燃やして生え難くしていたという。江戸時代に入ると、幕府は強さを象徴するヒゲを天下泰平の害になると考え、「ヒゲ禁止令」を出した。これ以降、和カミソリや小力によるヒゲそりが広まったと考えられている。しかし、和カミソリや小刀でヒゲをそると、ケガをすることも多く、定期的に研ぐ必要もあったので庶民が毎朝気軽に行なうというわけにはいかなかった。
19世紀末に薄い鋼板を用いた安全カミソリが発明され、本格的に安全なヒゲそりが日常生活に定着してきたのである。安全カミソリは、刃を安全な角度で固定して、皮膚に食い込まないようにしたカミソリで、非常に薄い鋼板が用いられた。この刃に用いられるステンレス鋼板は、日本刀で培った純度の高い鉄を叩いて精錬する鍛造技術が生かされ、世界のカミソリ刃の60~70%は日本で作られている。
協力:フェザー安全剃刀株式会社
ピアノ
音楽を身近にした鉄の楽器
ピアノは、多くの人々に演奏の楽しさを伝えてきた。しかしこの身近な楽器は鉄がなければ成立しない楽器でもある。多くの人の心を癒す楽器には、他にもギターのスティール弦のように鉄の発達とともにより美しい音色を奏でることができるようになったものも多い。
ピアノに似た楽器にチェンバロがある。バロック音楽でよく用いられるこの楽器の欠点は、音に強弱がつけられないことであった。そこで、約300年前にイタリアで生まれたのが「ピアノ・エ・フォルテ」(小さい音も大きい音も)であり、略して「ピアノ」と呼ばれた。鍵盤を叩くと、呼応したハンマーが、いわゆるピアノ線(鋼線)という弦を叩いて音を出し、その振動を響板と呼ばれる木の板に伝え増幅するというしくみの楽器である。
今日の日本では、楽器の中でピアノ人口が最も多いという。これほどピアノが楽器演奏者の裾野を広げたのは、誰にでも正確な音が出せ、しかも一人でメロディー・ハーモニー・リズムを演奏できる楽器であるためと考えられている。
また、グランドピアノで約350kgという重さの1/3は強く張られた230本ほどの弦(ピアノ線)とそれを支えるフレームという鉄の重さである。大きな音を出すためには、太い弦を強く張る必要があり、弦の張力は総計20トンにも及び、その張力に耐えうるフレームは産業革命で鋳鉄技術が進歩するまでつくることはできなかった。製鉄技術の発展とともにピアノは大きく、美しい音色を奏でることが可能となった。実は、産業革命前のモーツァルトやベートーベンの時代には、ピアノのフレームや弦はまだ製鉄が未発達で、彼らが奏でた音の大きさや音色は現代とは全く異なるものであった。
展示してあるクリスタルピアノは、美しく、内部の構造がよく見えるというだけでなく、XJAPANのYOSHIKI愛用のピアノとしても知られている。
協力:株式会社河合楽器製作所
携帯音楽再生機
ステンレスボディーも創った“ウォークマン"
歩きながら音楽を聴くことを可能としたのは“ウォークマン”である。さらに、ボディーをオールステンレスにするなど技術的に困難なデザインの開拓者も“ウォークマン”であった。当時はカセットテープが主流で、鉄という磁性体も音楽を広げることに一役買ったともいえる。
“ウォークマン”は「音楽を持ち歩く」という新しいライフスタイルを世界中にもたらしただけでなく、鉄の合金であるステンレスのデザインにおいてもパイオニアであるといえる。1999年に“ウォークマン”誕生20周年記念モデルとして発表された「WM-EX20」は、ポータブルオーディオとして初めてステンレスボディーを採用したモデルである。すでにカセットテープが忘れ去られつつある現代にあっても、そのデザインと質感を愛するファンにとっては幻の名品として高い評価が与えられている。
それまで、この種では軽量化を図るために主としてアルミやプラスチックがボディーに用いられてきたが、ステンレス鋼板を限界まで薄くし、「深絞り」という技術によりこの点を解決した。そして、この製品以降、デジタルオーディオプレイヤーのみならず、携帯電話などにもステンレスボディーが採用されるなどポータブル家電デザインに広く影響を与えた。
ステンレスボディーは、高級感や質感といったイメージ面のみならず、アルミやプラスチックよりも硬く強度があり、衝撃や傷に強いことに特徴がある。しかもサビに強く、汚れ落ちも良く衛生的で、保温・保冷性にも優れているといった利点がある。
また、ステンレス表面の仕上げ方法によって、まるで鏡のように光沢のある鏡面仕上げ、薄く擦り傷をつけて光沢を抑えたヘアライン仕上げなどがある。「WM-EX20」では手作業で正面はヘアライン、側面は鏡面というつくりとしたとのことである。
協力:ソニー株式会社
携帯電話
ケータイを支える鉄
携帯電話には、通話やメールのほか、カメラ、音楽プレイヤーなどの先端機能が満載である。実は、それを支えるのはバイブ機能のための電磁鋼板、基盤のためのステンレス箔などさまざまな鉄であり、軽量化に最も貢献したのも下町のプレス加工の職人技だった。
いまや一人1台が当たり前となった携帯電話。その前身であるショルダーホン(車載・携帯兼用型自動車電話)のサービスが始まったのは約20年前の1985年である。当時、持ち歩ける電話線のない電話という点で画期的な電話機であった。しかし、当初モデルでは重量が約3,000gもあるにもかかわらず、待ち受け時間は約8時間しかなかった。現在の携帯電話では、重量は30分の1以下の約90g、待ち受け時間は約80倍の約600時間となっている。
この軽量化、高機能化にはメーカー、通信事業者の血のにじむような努力があった。なかでも軽量化に大きく貢献したのはリチウムイオン電池による革新である。このとき電池の液漏れを防ぐために、頑丈でサビや温度変化に強いステンレスの電池ケースを、継ぎ目のない一体成型でつくる必要があった。1枚のステンレス鋼板から、何種類もの金型を使ったプレスを重ねて最終型をつくる「深絞り法」を用いて、この難題を解決したのは、職人技を誇る日本の小さな町工場であった。
また、いまでは必須のバイブレーター機能は、組み込まれた小さなモーターの振動を利用しているが、ここにも日本の製鉄が得意とする電磁鋼板が使われている。電磁鋼板とは鉄の感性を改良することにより、磁力を強化し、少ない電気容量でもモーターに大きな力を発揮させるものである。最新機種に目が奪われがちな携帯電話ではあるが、素材や熟練の職人技がその最新の機能を支えていることを忘れてはならない。
協力:株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ
日本刀
最強にして最も美しい刀
驚くべきことに、現在の最新の製鉄技術をしても日本刀を機械で作ることはできない。古くからの日本独自の技法の中に、「折れず、曲がらず、よく切れる」の相矛盾する3つの要素を非常に高い次元で同時に実現させるすばらしい製鉄技術がつまっている。
日本刀とは、武士が出現する平安時代後期以降に作られた刀をさす。明治になり廃刀令が出されるまでは、武士が携帯し武器としての役割を担いつつ、武士の魂としての象徴としての意味も併せもっていた。
日本刀は、玉鋼(たまはがね)と呼ばれる鋼鉄が原料であり、近代製鉄法以前の日本固有の製鉄技術である「たたら製鉄」によって砂鉄から作られる。従って、良質な砂鉄を産出した備前(今の岡山県・兵庫県の一部)などで日本刀作りが盛んになった。
たたら製鉄によりできた玉鋼を鎚(つち)で叩く「鍛錬」を行う。叩いて延ばして折り返して、この鍛錬を何千回と繰り返して、玉鋼に含まれる硫黄などの不純物や炭素を取り除き、数万層に折り重なった鋼へと精錬されていく。鍛錬法は優れた製鉄技術で、結晶が均質で、現代の機械技術では作れないほどの微細な結晶を有し、普通鋼に比べて数倍の強度を持っている。この鋼(皮鉄)は「曲がらず、よく切れる」を実現するが、逆に、折れないためには鋼は軟らかくなくてはならない。この矛盾を解決したのが、炭素量が少なくて軟らかい鋼(心鉄)を炭素量が高くて硬い皮鉄でくるむという方法で、日本刀製作の大きな特徴である。
日本刀は、砥がれ磨かれ、装飾を施され、芸術品としての価値をも併せ持つ。日本刀の製作技術は、近代製鉄法発祥以降も、日本の製鉄技術の中に脈々と流れ、今日の日本の鉄鋼業が世界において先進的な地位にあることに決して無関係ではない。
協力:法華三郎日本刀鍛錬所
大島高任
日本近代製鉄の父
江戸末期、ペリーの来航から日本はその武力に対抗するため、大砲を自前で作る必要があった。そのための鉄を得るには、鉄鉱石から鉄を作る技術が必要で、南部藩の大島高任が、大橋(現在の釜石市)に日本で最初の高炉を作り、鉄の生産に成功した。
大島高任(おおしまたかとう)は、1826年南部藩の侍医の長男として生まれた。長崎などで蘭学を学び、水戸藩の委嘱により、水戸那珂湊で日本初の反射炉の建設にたずさわり鉄の生産を行った。しかし、そのときに反射炉で作られた鉄は、材質が劣っていたため優れた大砲を作ることができなかった。このとき欧米列強に対抗するには良質の鉄を大量に作ることが必要だと悟った大島高任は、南部藩に帰藩し、オランダ人技師ヒューゲニンの著した「鉄煩鋳鑑」を基に、独力で日本では初めての高炉を作り、近代製鉄をもたらした。彼は、独自に「ふいご」を改良し、優れた鉄を大量に生産することに成功した。時は1858年、今から150年前、明治政府が誕生する10年前のことである。当時の南部藩は鉄器づくりの盛んな土地であり、製鉄のさまざまな技術が職人に備わっていたからこそできたことだった。新しい製鉄法と日本の伝統的なものづくりのすばらしい出会いであった。
大島高任は、その後仲間とともに南部藩校の日新堂を開き、後に国際連盟事務次長となった新渡戸稲造らを教えた。また、明治に入ると工学寮(東京大学工学部の前身)開校を政府に進言し、さらに、岩倉具視使節団の一員として欧米にも渡り、ドイツのフライベルク大学で鉱山学を学んでいる。
釜石は官営の製鉄所になるが、このとき明治政府が招聘した外国人技師と高任の意見が対立し、彼の意見が取り入れられず釜石を去ることになった。
後に、高任は日本各地の鉱山開発に従事し、日本鉱業会初代会長も務めた。
山崎豊子
鉄鋼マンの志を伝える語り部
山崎豊子ほど、日本の鉄鋼マンの熱い夢や志を人びとに広く伝えた作家はいない。徹底した取材力をもとに『華麗なる一族』や『大地の子』などのベストセラーを通じて、一般の人にはなじみの薄い鉄鋼という世界を人びとに知らしめた功績を私たちは忘れない。
2007年のドラマ視聴率1位は平均24.39%の『華麗なる一族』だった。山崎豊子の原作小説では、銀行家の万俵大介が主人公だったが、ドラマでは鉄鋼マンである息子・鉄平が主人公として描かれ、演じたのは木村拓哉。しかし鉄鋼マンには、原作でも鉄平が主人公であった。
1960年代、「鉄は国家なり」といわれた鉄鋼産業華やかりし時代、万俵鉄平に率いられた阪神特殊鋼は他に先駆け、まだ数少ない自動車向けにベアリング鋼の生産を始めた。これが時流に乗り特殊鋼業界ではトップ企業となった。しかし原料となる銑鉄の供給は大手製鉄メーカーに頼らざるを得ず、その供給が不安定だったため、鉄平は自ら銑鉄を生産すべく高炉建設を志すが・・・。
多くの鉄鋼マンが、この小説の展開に心を奪われた。正義感を背景とした鉄平のスケールの大きな夢や志に自らを重ねて熱くなった。そして小説がベストセラーとなり、テレビドラマが話題をさらうと、それまで鉄鋼業と無関係であった人びとにまで鉄平を通じて鉄鋼業や鉄鋼マンの熱い志を伝えることとなった。
山崎豊子の徹底した取材は知られるところである。『華麗なる一族』が40年近い時代を経て、なお人びとの共感を呼ぶのは、この取材力に裏打ちされたリアリティーがあるからであろう。また、山崎は『大地の子』でも残留孤児として生き別れた親子が日中それぞれの鉄鋼マンとして再会するというドラマを描いている。よくよく、山崎豊子と鉄鋼マンは縁が深いとの感がある。
鉄人28号
全てのロボット漫画の原点ともいえる横山光輝の代表作“鉄人28号”
漫画連載と同時代の昭和30年代の日本を舞台に、リモコン次第で善にも悪にもなるロボットを巡り、主人公の少年探偵・金田正太郎と悪人たちの攻防を描く物語。数々の苦難の末に鉄人を手に入れた正太郎は、今度は鉄人28号の力で次々と現れる犯罪者や怪ロボットを倒して平和を守る為に活躍する。
ラジオドラマ、実写ドラマ、テレビアニメ、特撮映画、数々リメイクを繰り返される人気漫画である。
1956年(昭和31年)、漫画「鉄人28号」が、月刊誌「少年」で連載開始。当時の少年達に絶大な人気を誇り、現在の日本におけるアニメ文化の基礎をつくった。実写版テレビドラマは1960年2月1日~4月25日に日本テレビ系列で全13話モノクロで放映。テレビアニメは1963年10月20日~1966年5月25日、フジテレビ系列で全97話が放映され、身長10メートル以上、重量100トン以上(推定※)の戦う巨大ロボットの姿は戦後の日本の少年達に夢と希望を与えただけでなく、「マジンガーZ」や「ガンダム」をはじめとする、数々の作品に強い影響を与えている。
最新作は劇場映画版アニメ『鉄人28号白昼の残月』(はくちゅうのざんげつ)で、2007年3月に公開され、改めて幅広い世代にその人気の高さを見せた。
パチンコ玉
製鉄技術が詰まった小さな玉
パチンコは、戦前名古屋で生まれたとされている。日本独特の遊びであり、大人の娯楽の王様といわれている。パチンコは、鋼鉄のパチンコ玉と、台に打ち込まれた真鍮の釘の反発を楽しむ遊びともいえる。パチンコ玉には、意外なほど多くの製鉄技術が詰まっている。
パチンコ玉は、鋼鉄の線材から作られている。一定の長さにカットされた後、プレス機で押しつぶし丸く形作られる。さらに表層部の炭素量を高めた後に焼き入れ・焼き戻しを行って、その鋼としての性質が決められる。その後磨かれて形を整えて、硬質クロムめっきが施される。 できあがったパチンコ玉は法律により直径11mm・重量5.4g以上~5.7g以下と決められている。この意味において、パチンコ玉はベアリング球と同じであるといってもよい。一定の大きさでしかも真球に近いパチンコ玉だからこそ、ぎりぎりに絞られた釘と釘の間を見事にすり抜け、あるいは踊るように跳ね返り、その球の行方にわくわくすることができる。
焼き入れを行うことにより、パチンコ玉は表層部の炭素を多く含む硬い性質の鉄と中心部の軟らかい性質の鉄との二つの側面を同時に持つことになる。この二重構造はゴルフボールや野球のボールと同じような性質を有している。
1948年に原型といわれる正村ゲージが発明されてから、パチンコ台はチューリップなどの役モノ、さらには電動台の導入、デジタルパチンコの発達などさまざまな変化を遂げてきているが、パチンコ玉は大きくは姿を変えず、今日に至っている。
パチンコホールでは、1台のパチンコ台あたりおよそ1万個のパチンコ玉を有しており、使用後は回収され、玉研磨機できれいに洗浄され循環使用される。使い続けても、ほとんど磨耗せず、いつまでも美しく輝いているのもパチンコ玉の魅力である。
協力:有限責任中間法人 遊技球製造協会
スケート・ブレード
スケートをスポーツに変えた鉄
フィギュアスケートの美しさ。スピードスケートやアイスホッケーなどの速さや力強さは、私たちを楽しませてくれている。スケートをスポーツたらしめたのは鉄が身近な素材となってからである。スケート以外でも、さまざまなスポーツで鉄はその力を発揮している。
「スケート」といえば、今では誰もがスポーツを思い浮かべる。しかし、かつては直進しかできなかったスケートに自由自在な動きを与えたのは近代の製鉄技術であった。
「スケート(skate)」という言葉は、オランダ語で「脚の骨」を指す「Schaats」という単語に由来しているといわれる。古代にはスケート靴の刃にあたる部分はウマやウシなどの動物の脚の骨を削ってつくられていたという。その後、骨は木製に置き換わったものの、鉄の刃はまだ人の体重を支えられなかった。そこで、当時のスケート靴は氷結した運河や湖の移動手段として、あたかも「木そり」のように使用するものであった。しかし、この時代には、刃の部分に氷に食い込むエッジが無かったため、氷上で曲がったり、止まったりすることはできず、スケートは縦方向に直進することしかできなかった。
人間の動きに耐えられる鉄のブレード(刃)が使われるようになったのは16世紀になってからである。スケート靴は鉄ブレードを得たことにより、横方向に力をかけることができるようになり、曲がったり、加減速が可能となった。ここに至って、スケートは単なる移動手段から、スポーツへと進化したのである。そして18世紀になると、オランダで世界最初のスケート大会が開催され、最初はスピードスケートが、後にフィギュアスケートが、スポーツ競技となっていった。
今ではスピード、フィギュア、ホッケーとそれぞれのスポーツに適したブレードが発達している。
協力:エスク・サンエススケート株式会社